「健康生活の原理」を読む 2
野口氏が治療(整体)をやめた訳を考える
至高の技術をもった人が治療をやめるということは、そこに治療よりも大事なものがあったからに
他ならない。野口氏は治療の効用よりも治療の弊害を考えた。
整体の弊害
「私が治療というものから手を引いたのも、そのためなのです。治療するということは、他人の
不摂生の後始末をやっているようなもので、私の技術が上手になればなるほど、安心して不摂
生をして体をこわしている。あすこへ行けば簡単に治してくれるなどと横着な考えを起こして、安
心して体をこわしている。治療をするということは、他人に依りかかることを奨励しているみたい
なものなのです。(健康生活の原理P108)」
弊害とは、患者が整体指導者に頼る気持ちが多すぎて自分で治る努力を怠ることである。
「自分の裡の力を信じられなくて、だんだん自分以外のものに頼るようになって(同P85)」
こういう整体ならば
野口氏は整体(治療)を完全に否定していたのではないと思います。活元運動や愉気など自分でき
ることをしても整えるのが難しいときには手を貸したのではないでしょうか。患部や症状を治すためだ
けの整体ではなく、からだ全部を整えるための整体であれば良かったのではないでしょうか。その方
法にしても相手を完全に治してしまうのではなく、治るキッカケだけを作り、後は本人が自分の力で治
るように方向付けをする・・・こういう整体ならば良かったのではないでしょうか。
整体があるから頼る・・・老子の言葉をかりて
しかし患者は病気や症状を治すことを一番の目的として、野口氏の整体(治療)を頼ることをやめな
かった。野口氏は彼らの中に、活元運動・愉気を中心とした「自然のからだ」を目指す姿勢を感じられ
なかったので、整体をやめざるを得なかったのではないでしょうか。やめることで患者の自立を喚起し
ようとして・・・。
老子曰く「慧智出,有大偽(余計な知識や智慧が世の中に出て来ると、人を騙したり、偽りが多くな
る・・・白石拙訳)」
野口氏風に変えてみると「整体出,有依存(その人のために良かれと思い整体をすればするほど、
患者の中の依存心が大きくなる)」
老子曰く「為無為,則無不治(何もしなければ、すべて上手くいく)・・・白石拙訳」「何もしなければ」と
いうのは、「自然を基準として余分なことをしなければ」という意味です。活元運動や愉気が自然に行
われる状態は良いのです。無為(治療ではない)の活元運動、愉気をきちんとすれば、からだも自然で
いられる(病気にならないという意味ではありません) 。
「本当に丈夫になるためには、やはり自分の体の力で、自分の体の正常さを保つように体を訓練する(同P92)
整体指導者は、患者がいつでも活元運動や愉気などで自立していくように導き、出来るだけ早く(整
体を受けに)来ないようにさせることです。想像するに野口氏は、治した人から感謝されるよりも、本人
がイキイキと生きていくことを観たかったのではないでしょうか。
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